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 標的は? と問うたわたしの声に、不思議とマライヒはにこりと笑う。

 どうやら、わたしに言葉をかけられたこと、それ自体が嬉しいらしい。全く、不可解な子だ。

 素直なほほえみを浮かべたまま、わたしの前にコーヒーを置き、自分も大振りなカップを手にする。目線で、飲んで、と促される。もう幾日も、夜遅くまで本部に詰める日が続いている。コーヒーもいい加減、飲み飽きてしまった。

 じっと、青い青い瞳が私を見つめる。小さく形の良い鼻から先を、大振りのカップに埋めて。さらに笑みを深くして目が細くなった表情の幼さに誘われ、デスクに置かれたカップを持ち上げると、新鮮な香りがした。

これは、本部のコーヒーメーカーが作る、煮詰まって風味も香気も失われた泥水と大差ないそれとは違う。

一口含むと、コーヒーにしては甘めな、けれど非常に豊かな香りと苦みが口腔内に広がる。疲労とストレスと睡眠不足に濁っていた思考が、徐々にすっきりとしてくるようだ。

「クリスマスブレンド」

「何だ?」

 クリスマスブレンド。

 思わず問い返したわたしに、笑いを含んだマライヒの声が繰り返す。彼の嬉しげな気配が、とげとげしく昂ぶっていたわたしの感情を撫でつけるように、落ち着かせていく。この優美なラインを描く唇に触れられるなら、ここ数日来わたしの頭を悩ませている「新人」テロリストの標的など、もうどうでも良いと思えるほどに。

「このコーヒー、クリスマス用の特別ブレンドなんだよ。ほら、花屋の横のコーヒー店、知らない? さっき市警までお使いに出たついでに買ってきたんだ」

「クリスマスというが、まだ十一月だぞ」

「ハロウィンが終われば、街中はもうクリスマスムード一杯だよ」

 カレンダーを指したわたしの反論に、亜麻色の髪が揺れる。この子は、小首を傾げただけでどうしてこうも愛らしいのか。いや、そう感じてしまうわたしの頭の方が、常軌を逸しているのだろう。

「あの店、毎年おいしいスペシャルブレンドを出すって本部の人たちに聞いてたから、楽しみにしてたんだ」

 おいしいでしょう?

 そう言って、自分のカップにまた鼻先を埋める。マライヒはいつもミルクと砂糖を足して飲むので、あの大きなカップの中身もカフェ・オレに違いない。それでも、本部謹製の泥水コーヒーとは違うのだろう。香りを楽しんだりカップの中をのぞき込んだりしては、嬉しそうに飲んでいる。

「ああ、確かに旨いな」

と、彼に返した自分の声が随分和やかで驚いた。呆れたことに私は、コーヒー一杯とこの子の笑顔にすっかり懐柔されてしまったらしい。

沸いてきた苦笑を隠して、もう一度コーヒーをすする。確かに、スペシャルブレンドの名を負うだけのことはある味だ。

「特別っていいよね」

「うん?」

「このコーヒーもそうなんだけど。期間限定とか、特別ってつくと、それだけでうきうきする」

 他愛のない言葉。

 

 確かにマライヒは、祝祭だの、季節の行事だの、旬の花だの、今だけのデザートだのといったものが好きで、あれやこれやの特別≠見つけてきては、休日を費やしたがる。休みの多い職業でもないので、月に一度か二度、用事の無いときには付き合ってやり、そうした特別≠ノ触れるときの嬉しそうな彼を見ると、ああ、この子はまだ子供なのだなと思う。彼は、本当に幼い子供の部分を胸の奥に抱いて隠し切れずにいる。過酷な幼少期ゆえに、早く大人にならなくてはいけなかった子の、胸の奥底の幼子。わたしはどうも、その部分を守りたくて、抱いてやりたくて堪らないのだ。驚いたことに。

「だからなのかな」

「何がだ?」

 唐突な話題転換に顔を上げると、マライヒはとうにカップを黒く厚い資料ファイルに持ち替え、あの笑みはどこへやら硬質な美しさを放つ横顔を見せている。

「ルーキー・テロリストの標的、ロンドン塔の特別なダイヤみたいなんだ」

 全く、この子には驚かされてばかりだ。

 

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